1231*わたりろうか

 近代自我とは何か。自我というものをふと見つけてしまったわれわれが、これをどう扱おうかと色々と試行錯誤した結果、どうやら不定形で根拠ないもの、存在証明の不可能なものとしてしまおう、というのが分かりやすい解の一つになったかと思われます。我々にはネットでの生活があり、ネット以外での生活があります。日記に執着しなくとも、我々の周囲には明るく我々を照らすテレビや街灯が無数にあります。それらを必要としている、と感じる瞬間がいくつあるでしょうか。それらの中にも息をのむ感動はあります。しかし、日記的なもの、と申し上げて差し支えなければ、日記的なもの、その感動は日記でしか味わえず、周囲との隔絶を覚えるとすれば、その日記的なものに感動を覚える私を発見したとき、それ以後の我々がそうなるかと思われます。私は感動したい。都合により手に入れる欲求より、都合により手に入らなかった抑圧より、理解し合えない孤独より、私は理解したい。そして私は理解されたい。必要なものを集めて並べてみるより、今必要でないものに、はっと息をのんでみたい。私は日記で、自らの内の無理解と、自らの理解されたいところと、様々な理解を、世界を、孤独を超克して知ってみたい。私はわたしを含むわたりろうかになりたい。私は美しい人になりたい。わたりろうか、復活します。美しいお年を。美しい貴方を。美しくわたりたい。ありがとう。